2018年8月9日木曜日

幻の甲子園

大先輩から、甲子園に関わる面白い話をお聞きしたので、ご紹介。

仙台一高が、全国野球大会に、最初に出場したのが、大正12年、第8回大会。
第2回目は、昭和15年、第26回大会。
当時はまだ、東北全体で1校の時代だった。
残念ながら、初戦敗退。
そして昭和16年からは、戦争のため、5年間中止が決まった。
野球は、敵国のスポーツだし、やむなかったろう。

当時は、結構強くて、慶応にも勝ったことがあったそうだ。

ところが、昭和17年、文部省が、突如開催を決めた。
朝日新聞は、猛抗議したが、朝日新聞主催とならず、記録上、100回の中には、入っていない。
そして、仙台一高は、3度目の出場を果たす。
参加校は、16校。
打者は投球をよけてはならない、選手交代認めず、旅費、滞在費は、参加校負担という珍ルールだったという。
食糧事情が悪く、選手は、立っているのがやっとの人も多かったらしい。

選手宣誓が凄い。漢文の先生が書いたそうだ。
”我等は、只今のご訓示を体し、平素学校報国団における修練を遺憾なく発揮すると共に、必勝不敗の信念を培い、皇国の次代を双肩に担うべき青年学徒として、あくまでも正々堂々と戦い、以って本大会の趣旨に沿わんことをお誓い致します。”
高校の先輩が、選手宣誓をしたのは、これ一回であり、戦時色の濃い内容だった。

初戦の相手は、大分商。
ピッチャーは、後にプロで173勝をあげた方だったが、両軍ともへろへろで、フォアボールとエラーの多い試合だったそうだ。
そして、一点リードで迎えた9回表、レフトポールに当たるツーランホームランを打たれ、万事休すと思われたが、何とレフトの選手が、ボールはここにあるとグローブの中を見せ、レフトフライの判定に覆ったのだそうだ。
今でも、真実はわからないが、初戦を突破。
仙台一高の甲子園での、唯一の勝利(未公認)となった。

2回戦は、また乱戦で、6回まで、リードしていたが、7回裏に17点を奪われて、28対10で敗れた。
フォアボールが、両軍合わせて、44!
選手交代が禁止されていたから、投げ続けるしかなかった。
両軍合わせて38点も記録で、公式戦での記録は、36点だそうだ。
ともあれ相手は、伝統の広島商。悔いは無かったろう。優勝は、徳島商。

そして、昭和25年、東北代表として4回目の出場を果たしたが、神奈川商工に大敗したという。
捕手が、4回に、股間にボールを受け負傷したのが、敗因になっている。

100回の歴史の中にこのようなドラマが、どれだけあったろうか。
そして、幻の甲子園の話も語り継がれていく。



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